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最高裁判所第一小法廷 平成7年(オ)1299号 判決

上告人

石堂正彦

右訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

藤原精吾

豊川義明

高橋典明

出田健一

戸田勝

被上告人

朝日火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

野口守彌

右訴訟代理人弁護士

河本毅

和田一郎

宇田川昌敏

狩野祐光

牛嶋勉

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人宗藤泰而、同藤原精吾、同豊川義明、同高橋典明、同出田健一、同戸田勝の上告理由第一について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものであって、採用することができない。

その余の上告理由について

原審の適法に確定した事実関係によれば、(1) 被上告会社では、昭和四〇年二月一日、興亜火災海上保険株式会社鉄道保険部で取り扱ってきた保険業務を引き継いだのに伴い、同部に勤務していた者をそれまでどおりの労働条件で雇用することとなったが、それ以来、全日本損害保険労働組合朝日火災海上支部(以下「組合」という。)との間で、鉄道保険部出身の労働者とそれ以外の労働者の労働条件の統一に関する交渉を続け、昭和四七年までに、鉄道保険部出身の労働者の労働条件をそれ以外の労働者の基準まで引き上げることによって就業時間、退職金、賃金制度等の労働条件を順次統一してきたが、定年の統一については合意に至らないまま時が経過し、鉄道保険部出身の労働者の定年が満六三歳とされていたのに対し、それ以外の労働者の定年は満五五歳とされたまま推移した、(2) 被上告会社は、昭和五二年度の決算において実質一七億七〇〇〇万円の赤字を計上するという経営危機に直面し、従来からの懸案事項であった定年の統一と併せて退職金算定方法を改定することを会社再建の重要な施策と位置付け、組合との交渉を重ねるようになった、(3) その間、労使間の合意により、昭和五四年度以降退職手当規程の改定についての合意が成立するまでは、退職金算定の基準額を昭和五三年度の本俸額に凍結する変則的取扱いがされることとなった、(4) 組合は、常任闘争委員会や全国支部闘争委員会で討議を重ね、組合員による職場討議や投票等も行った上で、本件労働協約の締結を決定し、昭和五八年七月一一日、これに署名、押印をした、(5) 本件労働協約は、被上告会社の従業員の定年を満五七歳とし(ただし、満六〇歳までは特別社員として正社員の給与の約六〇パーセントに相当する給与により再雇用のみちを認めるものとする。)、退職金の支給基準率を引き下げることを主たる内容とするものであるが、鉄道保険部出身の労働者の六三歳という従前の定年は、鉄道保険部が満五〇歳を超えて国鉄を退職した者を雇用していたという特殊な事情に由来する当時としては異例のものであったのであり、本件労働協約が定める定年や退職金の支給基準率は、当時の損害保険業界の水準と対比して低水準のものとはいえず、また、その締結により、退職金の算定に関する前記の変則的取扱いは解消されることになった、(6) 上告人は、本件労働協約が締結された時点で満五三歳の組合員であり、上告人に同協約上の基準を適用すると、定年が満六三歳から満五七歳に引き下げられて満五七歳の誕生日である昭和六一年八月一一日に被上告会社を退職することになり、退職金の支給基準率は71.0から51.0に引き下げられることになるというのである。以上によれば、本件労働協約は、上告人の定年及び退職金算定方法を不利益に変更するものであり、昭和五三年度から昭和六一年度までの間に昇格があることを考慮しても、これにより上告人が受ける不利益は決して小さいものではないが、同協約が締結されるに至った以上の経緯、当時の被上告会社の経営状態、同協約に定められた基準の全体としての合理性に照らせば、同協約が特定の又は一部の組合員を殊更不利益に取り扱うことを目的として締結されたなど労働組合の目的を逸脱して締結されたものとはいえず、その規範的効力を否定すべき理由はない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。本件労働協約に定める基準が上告人の労働条件を不利益に変更するものであることの一事をもってその規範的効力を否定することはできないし(最高裁平成五年(オ)第六五〇号同八年三月二六日第三小法廷判決・民集五〇巻四号一〇〇八頁参照)、また、上告人の個別の同意又は組合に対する授権がない限り、その規範的効力を認めることができないものと解することもできない。論旨は、独自の見解に立って、原判決を論難するものであって、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官高橋久子 裁判官小野幹雄 裁判官遠藤光男 裁判官井嶋一友 裁判官藤井正雄)

上告代理人宗藤泰而、同藤原精吾、同豊川義明、同高橋典明、同出田健一、同戸田勝の上告理由

第一、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな経験則違背がある。

原判決は、後記一ないし五の事実は正しく認定しながら、その事実から論理的に当然導かれる筈の「本件労働協約は異議申立をした組合員には適用しない趣旨で締結され、または適用の除外を認める留保特約が存在した」との判断をなさず、これとは正反対の結論である「本件労働協約について適用の例外を認める留保特約があったと解することはできない」との判断をした。

原判決の右判断は、判決に影響を及ぼすことが明らかな経験則違背に基づくものであり、破棄を免れない。

以下に詳述する。

一、上告人に対し、組合委員長が「あなたは協約に拘束されない」と説明し、上告人が組合脱退を翻意したこと

原判決は、組合の「執行委員長の太田忠志は、同年五月二日、控訴人に対し、『組合が協定しても、組合員個々人の権利は留保するという条件で協定するので、あなたは協定に拘束されないので、脱退する必要はない。』と説明したので、控訴人は、右脱退届を撤回した。」と正しく認定しており、本件労働協約締結の一週間前に、労働協約の一方の当事者の組合の委員長が、上告人に対し、異議申立をした者は協定に「拘束されない」と明確に説明し、この説明を受けて、協定の適用を受けるのであれば組合を脱退する旨主張していた上告人が、脱退を翻意した事実を原判決は認定している。

二、全損保本部の承認の内容

さらに原判決は、次のように認定する、即ち、全損保本部が「被上告人の協定案による協約を締結することに難色を示し、組合員個々人の権利を一方的に剥奪するような方向での収拾は避けるように指導し」、「組合は昭和五八年四月二八日に開催された常任支部闘争委員会において、定年、退職金問題を妥結するに当たっては、この問題を被上告人案で収拾するが『一人ひとりの権利を留保する立場をはっきりさせ、被上告人との交渉でも明確に主張する』ことを決定した。」「右の『一人ひとりの権利を留保する。』という趣旨は、労働組合組織として協定を締結するが、それに不満の者は被上告人との関係で異議を述べることができることを意味」し、「全損保本部常任中央委員会は」組合の決定につき「『一人ひとりの権利を留保する』ということを条件としてこれを承認した。」

本件のような全損保の支部が相手方の企業と労働協約の締結、変更するには、規約上、本部の承認を要するのであり、従って、本件労働協約は、「一人ひとりの権利を留保する」即ち、労働協約に不満の労働者は、会社に対して異議申立ができるという全損保本部の条件付きで締結されたものであることは、原判決が認定するとおりである。

三、組合と会社の団体交渉の状況

本件労働協約締結時の組合と会社の団体交渉につき、原判決は次のとおり認定する。即ち、「組合は、同年五月九日、被告との団体交渉に際して『組合は、定年、退職金問題について、協約を締結するにあたり、組織討議の経過を踏まえ、一人ひとりの権利を留保する立場をとる。つまり、組合組織としては、会社と協約に調印するが、右協約の内容について不満の者が会社との関係で異議を述べることができるものと解釈している』との付帯的発言を行った。被上告人は、これに対し右付帯発言の意味を質したところ、組合は、『組織的にはこの内容で合意するが、個人に不満がある場合、組織として統制をかけることはしない。会社と組合の関係では問題ない。ただ労使でどう決めようと、個人がやろうと思えばやれる問題と考えている。どうしてもという者について、異議を申し立てるのを駄目だとはいえない』ということであると説明した。それについて被上告人側は、『せっかく労使間で妥結した訳であり、できるだけそういうことのないように望みたい』との発言があった。」

以上のとおり、原判決は、組合が全損保本部の条件付承認の下に、団交の席上で、「組合組織としては、会社との協約に調印するが、不満の者が会社との関係で異議を述べることができると解釈している」旨明確に主張し、これに対して、会社は「できるだけそういうことのないように望みたい」との要望を示したものの、その留保条件について異議を示さなかったことを認定している。

四、労働協約締結後の会社の対応について

原判決は、労働協約締結後の会社の対応について、次のとおり認定している。即ち被上告人は「右交渉妥結後、従業員に対する代償金の支払を給与等と同じように銀行振込みによることとしたが、鉄保プロパー社員に対してのみ支払われる加算金については」「所属長が該当者各人に直接手渡して領収書を受け取ることとした。そして、昭和五八年五月一〇日には、近畿営業本部長が、同月一三日、二〇日、七月一八日には、人事部長が上告人を訪問し右加算金の受け取りを求めた。しかし、上告人は、その受取を拒否したばかりでなく、銀行振込された一般的代償金についても、これを返還した。」

五、組合大会の状況について

労働協約締結後の組合大会につき、原判決は、当時の組合執行部が組合員に対し、次のとおり説明したことを認定している。即ち、「権利留保については、」「三分の一の反対の重みを配慮して団交の中で主張している。この権利留保の点については、特に労使間で協定するのではなく、団交で主張するという扱いになっている。」「労使間協定は、非組合員を含めて全従業員に及ぶと考えている。『一人ひとりの権利を留保する』とは、統制上の措置を行わず、会社への異議申立ができることを意味するという組合の取り扱いとして考えてもらいたい。」

このように、原判決は、当時の組合執行部が、団交で「一人ひとりの権利留保」を会社側に明確に主張したことを大会で報告し、「会社への異議申立ができる」ということを大会において組合に説明したことを認定しているのである。

六、原判決の経験則違背

さて、以上一ないし五で原判決が確定した事実を前提にすれば、原判決の判断するように、「一人ひとりの権利留保」の組合の主張が「本件労働協約に例外を認めることの申し入れの趣旨でなされたものでない」などとどうして認定できるのであろうか。また、交渉妥結後、会社が各所属長をして、直接該当者に本件労働協約の内容を説明し、説得に当たらしめたことを、「本件労働協約の内容に照らし、取り扱いに慎重を期したものに過ぎない」とどうして判断できるのであろうか。

原審の適法に確定した前記の事実関係の下では、組合と上告人との関係では、前記のとおり、上告人は「協約に拘束されない」と明確に説明されている。また、全損保本部と組合の関係でも、「一人ひとりの権利留保」が条件となって妥結が承認されており、組合は全損保の承認の範囲でしか妥結の権限は与えられていない。更に、組合と会社の団交の席上でも、「不満のある者が会社との関係で異議を述べることができる」旨の組合の明確な主張(これは、組織として労働協約を締結しても、不満のある個人はこれに拘束されないということと同義である)に対して、会社は異議を述べずに、妥結している。最後に、会社は、交渉妥結後に、個々の労働者を訪問して、本件労働協約への理解を求めている。

これらの事実から、経験則上は、「本件労働協約は異議申立をした組合員には適用しない趣旨で締結され、または適用の除外を認める留保特約が存在した」としか判断され得ないところである。にも拘らず、これと全く正反対の判断をした原判決は、明らかに経験則違背を犯しており、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかな違法であり、原判決は、この点で破棄を免れない。

第二、原判決が、労働組合・労働協約の目的の範囲を越えて、個々の労働者の定年年令と退職金の引き下げを図った本件労働協約に規範的効力を認めたことは、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りである。

一、労働協約の変更によって労働者個人の既得権を侵害することはできない

そもそも労働組合は労働者の全人格的結合を予定するものではなく、労働条件の維持・改善を主たる目的とする団体で、個々の労働者はこの目的の範囲内において労働組合の統制に服し、その限りにおいて個人的自由が犠牲にされることに同意して組合に加入するのである。従って、組合員が加入に際して労働組合の目的として合意した範囲内の事項のみが協約の対象事項となって規範的効力を付与されるのであって、この目的を越えた部分については個々の労働者は自らの自由を当然留保しているのである。

例えば、労組法一七条に関する事案ではあるが、既に発生した具体的権利としての退職金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分、変更することは許されないとした香港上海銀行事件最高裁第一小法廷平成元年九月七日判決(労働判例五四六号)、組合員個人の私法上の権利である損害賠償請求権を協約によって放棄することはできないとする東海カーボン若松工場事件福岡高裁昭和五五年一二月一六日判決(労民集三一巻六号)は、この理を示すもので、これは当然の事理である。

原判決は、後記第四項四記載のように、一般に労働協約による労働条件の不利益変更を一定の範囲で認めたが、さすがにその場合でも、「既に組合員個人に生じた請求権等の剥奪は別」だと判示せざるを得なかった。

しかし、本件労働協約による不利益変更は、正に、定年と退職金という「既に組合員個人に生じた請求権等の剥奪」であって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りがある。

二、本件労働協約は、定年という労働契約上の固有の既得権または長期間にわたって定着した期待的利益を侵害するもので、そもそも規範的効力を有しない

1、本件労働協約による定年年令の引き下げは個々の労働者を解雇・退職させることと同様の事柄である。

(一) 個々の労働者の解雇・退職という事柄は、当該労働者にとっては労働契約上の最も基本的な固有の権利であり、また、自己の労働条件の維持・向上を図るために組合に加入する最低限の要求である。従って、加入した組合が労働協約で当該労働者を解雇・退職させるということは労働組合のあり方からも労働協約の本質からも本末転倒の事態であって、そのような労働協約に規範的効力を認めることは到底できない。解雇については松崎建設事件東京高裁昭和二八年三月二三日判決(労民集四巻三号)が、退職については日本食塩事件横浜地裁昭和四二年三月一日判決(労民集一八巻二号)が、この理を述べている。

右東京高裁判決は次のように言う。

「労働組合が使用者との間に労働協約を締結するに当っては使用者と労働者との間の労働条件の維持向上を図ることを目的とするものであって、労働条件の一般的基準となるべきものを内容とする労働協約については労働者においてその拘束を受くることは勿論であるけれども、専ら労働者個人の利害に関する事項についてはその労働者においてなおその処分権を失うことはないものというべく、従って解雇の如き労働者のため重要な事項についてはその受諾の意思がない以上たとえその属する労働組合において使用者との間に全員退職を内容とする労働協約を締結しても右労働者はこれに拘束されることはないものというべきである。」

(二) 定年年令の引き下げは解雇・退職と同様の事柄である

本件のような労働協約による定年年令の引き下げも、右に述べた解雇・退職と同様の事柄である。しかも、本件では、従来の定年を満六三歳としても一挙にそれより六歳も早く労働者を会社から放逐する結果を生ぜしめるのである。

これまで定年制の適用を受けて来なかった組合員を定年制によって退職させる内容の労働協約について、北港タクシー事件大阪地裁昭和五五年一二月一九日判決(労働法律旬報一〇三四号)は次のように判示する。

「労働組合は、使用者との間において、労働条件その他に関し労働協約を締結することができるのである(労組法一四条参照)が、その内容について、何をどのように決めるかは、労働組合の規約及び就業規則が労組法五条二項及び労働基準法八九条において法定されているのと異なり、全く当事者の自由に委ねられているかのごとくである。しかし、労働組合は、労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることをその目的として組織された団体である(労組法二条)ことからすると、労働組合が使用者との間において労働協約を締結する権限にも、自ずとその限界が存し、右のような目的の範囲内に限られるべきものであるということができる。従って、労働組合が現に、期間の定めなく、継続して雇用されている従業員(組合員)に関する雇用契約を解約するなど右契約を終了させ、又はそのような結果を当然に生ぜしめるような労働協約を締結することは、到底、右目的の範囲内に属するものということはできない。けだし、従業員が使用者との雇用契約を終了させるかどうかは、当該従業員にとってその地位を根底から覆し、最終的には生存にかかわるやもしれぬ極めて重要な事柄ということができ、それ故、右従業員の任意な意思によって決定すべきことであるから、たとえ労働組合といえども、これに干渉し、右従業員(組合員)を拘束するようなことはできないものといわなければならない。しかして、たとえ労働組合が内部的に多数決によって、当該組合員にかかる労働協約を締結することを決定し、使用者との間でその旨の労働協約を締結したとしても、右組合員が右協約を締結することに同意し、又は労働組合に対し特別の授権を与えることがない限り、右協約の効力は、右組合員には及ばないものというべきである。」

尤も、右判決は、これまで定年制の適用がなかった者に関する事案であり、同種の事案で就業規則による不利益変更に関するものである秋北バス事件最高裁昭和四三年一二月二五日判決(民集二二巻一三号)によれば、「労働契約に停年の定めがないということは、ただ、雇用期間の定めがないということだけのことで、労働者に対して終身雇用を保障したり、将来にわたって停年制を採用しないことを意味するものではなく、……既得権侵害の問題を生ずる余地のないものである」と言えるかも知れない。

しかし、本件は、原判決の認定によっても、少なくとも六三歳定年制が過去に労働協約で制度化されていた事案で、上告人らの既得権を侵害するものである。しかも、その程度は、以前の定年より一挙に六年も短縮するもので、極めて重大な権利侵害である。

2、なお、仮に従来の定年が既得権とまでは言えなくとも、少なくとも長期間にわたって定着した期待的利益を侵害するもので、既得権の侵害と同一視できるので、本件労働協約はそもそも規範的効力を有しない(渡辺章「協約自治と個別労働者の法的地位」日本労働法学会誌六一号六六頁、後藤清「協約自治とその限界」現代労働法講座6巻四八頁、近藤昭雄「労働協約自治の限界」労働判例三六〇号一四頁、横井芳弘「労働協約の規範的効力」新版労働法演習2巻三〇頁以下、西谷敏「労働法における個人と集団」二七七頁等参照)。

三、本件労働協約は、退職金という労働契約上の固有の既得権または長期間にわたって定着した期待的利益を侵害するもので、そもそも規範的効力を有しない

既述のように、香港上海銀行事件判決は、既に発生した具体的権利としての退職金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分、変更することは許されないとした。

なお、白急タクシー事件大阪地裁昭和五三年三月一日決定も、一般に、「労働組合は本来組合員の賃金その他の労働条件を維持改善することを目的(白急労組規約の綱領にもその旨規定されている)とするものであるから、労働組合が賃金その他の労働条件について使用者と協定を締結する場合にも原則としてその維持改善を目的とするものでなければならず、労働組合が組合員にとって労働契約の内容となっている現行の賃金その他の労働条件より不利なものについて使用者と協定を締結する場合には個々の組合員の授権を必要とする」と判示した。

尤も、本件労働協約締結当時、上告人は定年間近であっても未だ定年に達してはいなかった。しかし、退職金はそもそも賃金の後払いの性質を持つもので、そうでなくても、その金額が多額であること、労働者が労働市場から放逐されて以後収入の途が通常なくなり、老後の生存を支える根本条件であること、労働者は勤続中長期にわたって退職金の支給を当てにして家族を含めた生活設計を行うのである。従って、労働協約で退職金を切り下げることは、少なくとも長期間にわたって定着した労働者の期待的利益を侵害するものである。

第三、原判決が、本件労働協約に異議を申立てた上告人にも本件協約の規範的効力が及ぶと判示したことは、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りである。

一、原判決は本件労働協約の効力範囲の判断を誤っている

第二項で述べたように、原判決は、「一人ひとりの権利を留保する」趣旨で本件協約が締結されたことを看過した。これは、理由不備、理由齟齬、経験則違背に該るとともに、その結果、本件協約に異議を申立てた上告人にも本件協約の規範的効力が及ぶとした点で法令違背にも該当する。

即ち、原判決は、「一人ひとりの権利を留保する」との組合・会社間の確認に関する上告人の主張について、それが本件労働協約について適用の例外を認める「留保特約」の主張の趣旨と捉え、かつ、右の留保特約の存在を否定して上告人にも本件労働協約の規範的効力が及ぶとした。

しかし、そもそも右は本件労働協約の解釈を通じてその効力範囲を確定する問題である。従って、原判決は上告人にも本件労働協約の規範的効力が及ぶとした点でその効力範囲の判断を誤っており、労組法一六条に関する解釈・適用を誤った。

なお、原判決のように右を「留保特約」と見ても、結局、上告人に本件協約の規範的効力が及ぶとした点で同様に同条に関する解釈・適用を誤っているのである。

二、仮に、本件労働協約が労働組合・労働協約の目的の範囲内の事項に関して締結されたとしても、有利原則に反するものであるから規範的効力を有しない

1、有利原則については、明文でこれを認めるドイツと異なり、わが国ではこれを否定する傾向が強かったが、文理解釈は決め手にならないこと、わが国の労働協約の実態も様々であること、労働組合の集団的規整と労働者個人の私的自治との調和を図る必要があること、等から、有利原則が認められるか否かを当該労働協約の具体的な解釈に帰するとする傾向が強い(東京大学労働法研究会「注釈労働組合法(下巻)」八一四頁、諏訪康雄「労働協約の規範的効力をめぐる一考察」久保敬治教授還暦記念論文集『労働組合法の理論課題』一九九頁等、西谷敏前掲書二七九頁以下等参照)。

即ち、当該規定が最低基準であることを明示している場合や、そうでなくとも、画一的・定型的な基準であることがはっきりしない場合には、有利原則を認めたり(前掲西谷著書)、右の協約の趣旨がはっきりしない場合に「協約によりかえって労働契約の条件が引き下げられるというのは例外であり、例外はあくまでも厳格に狭く解されるべきであろう」(前掲東京大学労働法研究会著書)とか、組合が労働者の私的自治を積極的に認めている場合(例えば、協約基準を最低基準にとどめ、個人交渉による有利な労働条件の獲得を禁止していない場合)や消極的にせよ認めている場合(例えば、協約を一応標準的基準とするが、これへの例外を特に禁じていない場合)に有利原則を認める考え方である(前掲諏訪論文)。

2、本件労働協約は、「一人ひとりの権利を留保する」趣旨で締結されたものであり、このような場合に有利原則を認めなかった原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りがある。

第四、原判決が、「労働協約のいわゆる規範的効力は、……特定の労働者を不利益に取り扱うなどその内容が極めて不合理であると認めるに足りる特段の事情がない限り、不利益を受ける個々の組合員にも及ぶ」として本件労働協約に規範的効力を認めたことは、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りである(後記四、では理由不備・理由齟齬もある)。

一、前項までに述べたことが容れられず、既存の定年と退職金に関する労働条件も労働協約締結の対象事項となり、かつ、本件の場合に有利原則が認められないとしても、原判決が労働協約によるそれらの労働条件の不利益変更を認めたことには、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りがある(後記四、では理由不備・理由齟齬もある)

二、労働条件を不利益に変更することは、労働協約の本来の目的に反する

そもそも労働協約は、使用者が一方的に定める就業規則よりも高い労働条件を、労働者の団結の力で向上させるところにその意義があった。従って、労働協約で既存の労働条件を引き下げるということはその目的に反する。かつて、有利原則に関して、「この問題は、わが国では今までの所全く講学上のものであって実例はない」と言われていたが(石川吉右衛門『労働組合法』一八七頁)、今日では、労使の癒着によって労働協約による労働条件の不利益変更の事例が増えつつある。このような状況の下で、本来の目的に反する、労働協約で既存の労働条件を引き下げる事態をどう解するか、ということが本件で問われているのである。

まず、前掲白急タクシー事件大阪地裁昭和五三年三月一日決定は、「労働組合は本来組合員の賃金その他の労働条件を維持改善することを目的……とするものであるから、労働組合が賃金その他の労働条件について使用者と協定を締結する場合にも原則としてその維持改善を目的とするものでなければならず、労働組合が組合員にとって労働契約の内容となっている現行の賃金その他の労働条件より不利なものについて使用者と協定を締結する場合には個々の組合員の授権を必要とする」と判示したが、このように、労働条件を不利益に変更することは労働組合や労働協約の本来の目的に反し、そのような労働協約にはそもそも規範的効力は存しないと考えるべきである。

三、本件労働協約はその手続き及び内容から見て、規範的効力を有しない

仮にそうでなくとも、少なくとも、労働条件を労働協約によって不利益に変更することはその目的に反することであるから原則として許されず、例外的にそれが許される場合を次のように限定的に解釈すべきである。

1、まず、労働協約において労働条件が定められた場合、労働協約上特段の留保がなされていない限り、労働者は通常その労働条件の存続を前提に生活を営むが、協約の不利益変更はこの労働条件の存続と改善に対する信頼に背くものである。その意味で、労働協約における労働条件の不利益変更については、かかる信頼保護の原則からの法的審査が及ぶのである(毛塚勝利「集団的労使関係秩序と就業規則・労働協約の変更法理」季刊労働法一五〇号一五〇頁、一五一頁参照)。

本件のように、定年と退職金は、正に労働者が「その労働条件の存続を前提に生活を営」んでいた重要な労働条件で、本件労働協約はこの重要な労働条件を著しく不利益に変更するものである。従って、本件協約に規範的効力はない。

2、次に、一部もしくは全部の労働者の期待に反する労働条件の切り下げを内容とする労働協約の改訂のためには、全員投票、組合大会など組合員全員の意思を反映しうる事前の承諾または事後の追認を要し、特に、内容的に、組合員の一部に通常甘受が期待される範囲を越えた不利益を及ぼすような労働協約は、労組法五条二項三号の組合員の平等原則に反し、協約の規範的効力承認の前提条件を欠くとする考え方が有力である(西谷前掲書二六九頁、二九三頁。なお、片岡「協約における不利益変更の類型と法的処理」季刊労働法一三二号三九頁参照)。また、労働協約により既存の労働条件を切り下げる場合、その「公正さ」を、労働組合が組合員の利害調整を「適正な手続」をもって行ったか否かの手続的側面と、組合員の利害調整を「適正に行った合意」か否かの実体的側面の双方から判断するとする考え方がある(辻村昌昭「労働協約による労働条件の不利益変更と公正代表義務」日本労働法学会誌六九号六六頁以下、道幸哲也「公正代表義務」同学会誌六九号二三頁等)。

このような考え方によれば、本件労働協約が「一人ひとりの権利を留保」し、異議を申し立てた労働者には適用されないものと解して初めて、規範的効力が認められ、若しそのように解さなければ規範的効力は認められるべきでない。

何故なら、第一に、手続的側面を考えると、本件労働協約は事前に組合大会を経て締結されたように見えるが、「一人ひとりの権利を留保」するという条件は組合大会では議案にも上っていない。そして、原判決も認定したように、上告人は、右大会の席で、「鉄保労働協約適用者の定年、退職金の切り下げには賛成できない。したがって被控訴人の協約案を組合が飲むのであれば、私は組合に授権しない。もし、組合が被控訴人とこのまま協約を締結するのであれば、調印前に自分に言って欲しい。僕は労働組合を脱退します」と述べ、実際にも上告人は組合に脱退の申し出をした。ところが、当時の執行委員長が、上告人に対し、「組合が協定しても、組合員個々人の権利は留保するという条件で協定するので、あなたは協定に拘束されないので、脱退する必要はない」とまで述べて説得したので、上告人は組合の脱退を思い止まったのである。従って、本件労働協約が異議申立をした労働者にも適用されるものであれば、組合大会では組合に授権せず、その後組合委員長の直接の説得の結果「条件」付きで授権した上告人の意思に反した内容の労働協約を締結したこととなり、本件労働協約は適正な手続きに則ったものではないということになる。

第二に、本件労働協約は、原判決も認めるように、上告人に給与総額で二七七四万一七〇〇円、退職金で六七〇万三〇〇〇円もの著しい不利益を及ぼし、かつ、「給与総額及び退職金に関する右同様の不利益は、被控訴人従業員のうち、鉄保プロパー社員にのみ生ずる」。従って、本件労働協約が異議申立をした労働者にも適用されるものであれば、組合員の平等原則に反し、組合員の利害調整を適正に行った合意とは言えない。

本件労働協約は、右のような手続的・内容的な重大な問題点を孕むものであったからこそ、「一人ひとりの権利を留保」するという条件を付して締結されたのである。従って、本件労働協約は「一人ひとりの権利を留保」し、異議を申し立てた労働者には適用されないものと解して初めて、規範的効力が認められ、若しそうでないとすれば、規範的効力は認められるべきでない(なお、本件一審判決に関し、上告人が協約を締結するなら脱退するとして脱退申し入れをしたのに、組合執行委員長が組合員個々人の権利は留保するので上告人は協定に拘束されないと説明しながら、組合は留保の旨を協約に定めることをしなかった点に協約の効力を上告人に及ぼすことを否定する理由となる手続的瑕疵を認めるものに、小宮文人「労働協約の不利益変更」法学セミナー四六八号七六頁)。

四、仮に、原判決の言う「合理性」の基準に従っても、本件労働協約による労働条件の不利益変更には規範的効力は認められず、原判決には理由不備、理由齟齬があるとともに、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の適用の誤りがある

1、仮に原判決の言う「合理性」の基準に沿って本件労働協約の手続・内容を吟味しても、原判決が規範的効力を認めたことは違法である

まず、原判決が、右の基準による労働協約による労働条件の不利益変更の例外の一つとして、「既に組合員個人に生じた請求権等の剥奪は別」だと判示しながら、本件労働協約による不利益変更が正に定年と退職金という「既に組合員個人に生じた請求権等の剥奪」である点を看過した誤りについては、既に前記第二項の一で述べた。

そこで、以下においては、もう一つの例外である「特段の事情」の有無について、就業規則の不利益変更に関する最高裁判決の各種事案と比較しながら論じる。

2、本件事案の重大性〜就業規則の不利益変更に関する最高裁判決の各種事案との比較

まず、本件は、就業規則の不利益変更の合理性が問題となった本件類似の過去の最高裁判決(前掲秋北バス事件最高裁昭和四三年一二月二五日判決、御国ハイヤー事件最高裁昭和五八年七月一五日判決・労働判例四二五号及び大曲市農協事件最高裁昭和六三年二月一六日判決・労働判例五一二号)の事案に比較して、次のような重大な問題点を孕んでいる。

第一に、秋北バス事件では定年制の導入のみが問題とされ、御国ハイヤー事件では退職金算定の基礎となる勤続年数の頭打ちが、大曲市農協事件は退職金支給倍率の不利益な変更のみが問題とされたのに比較し(大曲市農協事件では他方、定年の年令は延長されている)、本件は定年年令と退職金・給与総額といういずれも重要な労働条件の双方が同時に引き下げられている。

第二に、しかも不利益変更の程度が、定年は六歳も(従来の定年を満六三歳として)、退職金は四分の一以上(上告人の場合、給与総額を含めると実に約三四〇〇万円もの多額)も引き下げるという大幅なもので、労働者の不利益性が極めて大きい。

第三に、代償措置がなきに等しく、第四に、上告人は経過措置の適用も受けられず、第五に、本件労働協約締結に高度の必要性が認められない。

従って、これら過去の最高裁判例から見ても、本件労働協約に規範的効力は到底認められない。

以下、詳述する。

3、上告人の不利益性が極めて大きい

(一) 秋北バス事件では、そもそも定年制度のない管理職について新たに定年制が導入され、最高裁判決は「労働契約に停年の定めがないということは、ただ、雇用期間の定めがないということだけのことで、労働者に対して終身雇用を保障したり、将来にわたって停年制を採用しないことを意味するものではなく、……既得権侵害の問題を生ずる余地のないものである」と述べた。

しかし、本件は、原判決の認定したとおり、少なくとも六三歳定年制が過去に労働協約で制度化されていた事案で、上告人らの既得権を侵害するものである。しかも、その程度は、以前の定年より一挙に六年も短縮するもので、極めて重大な権利侵害である。

(二) また、大曲市農協事件判決は、「特に、賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである」と述べた。右事件では、一方で定年の年令は引き上げられ、給与の増額等労働条件の一定の引き上げが図られ、その結果、「本件合併に伴って上告人らに対しとられた給与調整の退職時までの累積額は、賞与及び退職金に反映した分を加えると、おおむね本訴における上告人らの前記請求分に達している」と認定された。

ところが、本件では、原判決も認めるように、上告人に給与総額で二七七四万一七〇〇円、退職金で六七〇万三〇〇〇円、合計約三四〇〇万円もの著しい不利益を及ぼし、かつ、「給与総額及び退職金に関する右同様の不利益は、被控訴人従業員のうち、鉄保プロパー社員にのみ生ずる」。つまり、原判決も、右のような不利益は専ら上告人ら鉄保プロパー社員にのみ生ずることを認めている。

(三) このような著しい労働条件の不利益変更が、定年年令と退職金・給与総額という重要な労働条件の双方にわたって、かつ、専ら上告人ら鉄保プロパー社員にのみ生じたのである。これは正に、原判決の言う「特定の労働者を不利益に取り扱うことを積極的に意図して締結された」ものとして、規範的効力を否定する「特段の事情」がある場合に該当する。

ところで、原判決は、右のような上告人らの重大な不利益性を直截に認めながら、その不利益性が些少であるとか、代償措置や経過措置等と比較すれば実質的には不利益の程度は低い、などの評価を一切していない。つまり、不利益性の程度が極めて重大であることを自認している。にも拘わらず、原判決は、自ら定立した合理性の基準の重要性な一指標である労働者の不利益性を、本件上告人の場合に実際は全く考慮していない。これは理由不備、理由齟齬の違法があり、かつ、法令の適用を誤ったものである。

4、代償措置はなきに等しく、かつ、原判決は右の不利益性と代償措置との比較考量を実際上は全く行っていない

(一) 次に、そもそも原判決の言う合理性の基準にあっては、代償措置の検討は労働者の不利益性の対価として十分か否かを検討するために行うものである。従って、本件においては、前記の上告人の不利益性は極めて重大なものであるから、この不利益性と均衡する代償措置は相当対価性の高いものでなければならない。

ところが、原判決は、右のような上告人らの極めて重大な不利益性を補う代償措置については、僅かに四二万円の代償金を認定しただけで、かつ、この代償措置で十分であるとかの評価を一切していない。つまり、代償措置で不十分であることも自認している。約三四〇〇万円もの著しい不利益を補うのに四二万円で十分であるとは到底言えないだろう。

従って、原判決は、労働協約による労働条件の不利益変更について「合理性の基準」を採りながら、最も肝要であるこの不利益性と代償措置等との比較考量を実際上は全く行っておらず、これは理由不備・理由齟齬であるとともに、法令の適用を誤ったものである。

なお、原判決は、合体後労働時間、年休等で一定の労働条件の向上が図られたと認定しているが、これらは本件労働協約締結の一一年ないし一八年以上も前の事柄であって、本件労働協約による不利益変更の代償措置では全くない。だからこそ、原判決も、右の指摘は代償措置の項ではなく、単なる経過の中でしかせざるを得なかったのである。

(二) さて、一方、大曲市農協事件では、結果として就業規則の不利益変更が認められたものの、この代償措置が綿密に分析されている。

即ち、①退職金の支給倍率は低減されているものの、合併に伴う給与調整等により、合併の際に延長された定年退職時まで通常の昇給分を越えて相当程度増額されているのであるから、実際の基本月俸額に所定の支給倍率を乗じて算定される退職金額としては、支給倍率の低減による見かけほど低下していないこと、②合併に伴って上告人らに対しとられた給与調整の退職時までの累積額は、賞与及び退職金に反映した分を加えると、おおむね本訴における上告人らの前記請求分に達していること、③休日、休暇、諸手当等の面において有利な取扱を受け、かつ、定年そのものが延長されていること、である。

(三) 結局、原判決は、代償となる労働条件を何ら提供していないとして、退職金算定の基礎となる勤続年数の頭打ちの措置を就業規則の変更によって行い、その合理性が認められなかった御国ハイヤー事件最高裁判決の事案に類似する。また、本件は定年年令を一挙に六歳も、退職金等を約三四〇〇万円も引き下げるなど、右事案以上に遙に深刻な不利益を上告人は被っているのであるから、当然、本件労働協約に規範的効力はない。

5、上告人には経過措置の適用はなく、かつ、原判決は前記の不利益性と経過措置との比較考量を実際上は全く行っていない

原判決の言う合理性の基準にあっては、経過措置の有無・内容の検討は、代償措置とともに、労働者の不利益性の対価として十分か否かを検討するために行うものである。従って、本件においては、前記の上告人の不利益性は極めて重大なものであるから、この不利益性と均衡する経過措置は、代償措置とともに相当対価性の高いものでなければならない。

ところが、本件労働協約は、昭和五八年四月一日現在において満五七歳の者には、満六二歳まで特別社員として再雇用する旨の経過措置が採られているが、右は上告人には適用がない。

従って、原判決は、代償措置の項で述べた以上に、この不利益性と経過措置との比較考量を実際上は全く行っておらず、これは理由不備・理由齟齬であるとともに、法令の適用を誤ったものである。

6、原判決の本件労働協約締結の必要性に関する判示には理由不備、理由齟齬があり、かつ、原判決は法令の適用を誤っている

前述のように、大曲市農協事件判決は、「特に、賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである」と述べた。

ところが、原判決には、この「不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容」についての言及がない。これは、結論において法令の適用を誤っているだけでなく、理由不備・理由齟齬と言えるものである。

まず、本件は、大曲市農協事件のような合併(本件では「合体」)に伴うものではない。即ち、大曲市農協事件は、七つの農協が合併し、その合併に伴う労働条件の格差是正措置として合併直後に新しい退職給与規定を定め、これを合併時に遡って適用することとした事案である。ところが、本件は、合体後一八年も経過した後になされたものである。しかも、退職金制度は合体後早くも昭和四三年四月には統一されて新制度となり、同四六年には朝日支部の要求によって支給倍率が引き上げられるとともに、新しく、勤続三〇年以上の者について七一倍の支給倍率が定められた。本件労働協約は、合体後統一され、かつ、引き上げられた退職金支給率を、著しく引き下げたのである。従って、本件労働協約による労働条件の不利益変更の必要性は、右合体に伴うものでは決してなかった。

では、本件労働協約締結の必要性は一体どこに存したかということは、原判決では全く判然としない。善解すれば、漠然たる「経営危機」を理由としたようにも思えるが、第一に、判示では右「経営危機」は本件労働協約締結より六年も前の昭和五二年頃のことでしかなく、第二に、では本件労働協約締結時点で一体如何なる「経営危機」が存したかについては原判決は全く述べる所がない。第三に、大曲市農協事件と比較すると、前述のように本件労働協約による上告人らの不利益が甚大であることが明らかであるにも拘わらず、この「不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容」についての言及も全くない。この点の吟味こそが、本件では肝要であるにも拘わらず。

よって、原判決の本件労働協約締結の必要性に関する判示には理由不備、理由齟齬があり、かつ、原判決は法令の適用を誤っている。

7、よって、本件は、本来、原判決の言う「特定の労働者を不利益に取り扱うことを積極的に意図して締結されたなどその内容が極めて不合理であると認めるに足りる特段の事情」がある場合に該当し、本件労働協約による労働条件の不利益変更には規範的効力は認められず、原判決には理由不備、理由齟齬があるとともに、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の適用の誤りがある

第五、以上のとおりであるから、原判決中、上告人敗訴部分はいずれの点からも破棄されるべきである。

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